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平成28丙申(2016)年12月の記録 (この月は日付けの順  昇順


平成28年12月 1日(木)

 曇り。今朝は寒さが緩んだ。
   最低気温 8.4℃ (19:36)、最高気温 13.2℃ (00:56)

 ここ二三日、風邪気味のところをギリギリのところで押さえている。手術に際して風邪は絶対に駄目で、万一風邪を引いたら二三週間延期になるということなので必死だった。そしてなんとか押さえ込みに成功したようである。そいういわけで今日は用心のために外作業はやめて屋内の作業をした。

 小生の入院中、カミさんの両親が来てくれることになったが、我々はテレビがない生活に慣れているが世の家庭ではテレビは必需品だろう、義父(おやじ)さんもテレビがないと夜は手持ち無沙汰になるだろう、ということで、今日は義父さんの我が家での居住環境の整備に費やした。
 
 先ず第一に、両親の部屋にインターネット環境を作ること。我が家にはパソコンは腐るほどあるので、その中の一台を両親の部屋にセットしてLANケーブルを引いて、インターネット環境を整備した。

 次にテレビの受信環境の整備。我が家には基本的にテレビは無い。と言っても全く無いというのも子どもたちが困るだろうと、昔のアナログテレビに地デジチューナーを繋いで、それで必要なときは見るようにしている。一台は階下にあって太郎が子供時間に見ている。二階にあるテレビは地デジチューナーのリモコンが壊れていてチャンネルが回らずに一つのテレビ局しか見られない。娘は時々それで見ていて、お父さん直してよと言っているが、そのうちな、と言ってずっとそのままであった。娘も、特にそれ以上のことは言わない。娘は母親のタブレットを借りてネット環境で動画などを見ているようである。
 
 今日はその壊れたリモコンの修理をした。安価な地デジチューナーなので徹底的なコストダウンで本体ではチャンネル切り替えができず、リモコンを通じてしか出来ないようになっている。当然あちら製である。そのリモコンが作動しない理由は分かっていた。そうい製品だから乾電池はマンガン電池で、しかも長期間使っていなかったので液漏れを起こして乾電池ホルダーが真っ赤っ赤に錆びていて、磨いてももう手遅れ状態になっていた
 
 今日はその錆びた電池ホルダーの押え金を取り外して缶詰を切って押え金を作って、更にアルミホイルを丸めて隙間を埋めて動くようにした

 これで両親の居室の環境整備は終わり。
 
 その他に、公共料金の払込など小生が不在中にやってくる納期ものの支払いなどをした。他にも思いついたものを書き出しておいて入院までにやってしまおうと思っている。
 
 晩飯。炊き込み御飯、カンパチの刺し身、鯨の刺身、出汁巻き玉子、ホウレンソウの味噌汁。ホウレンソウが急に安くなった。クジラの刺し身は当初は小生だけが食べていたが太郎が味を覚えて小生の領域を侵しはじめた。


平成28年12月 2日(金)

 まあまあの晴れだった。寒からず寒からずの気温だった。
    最低気温 1.2℃ (07:14)、最高気温 12.2℃ (14:35)

 朝一番で宇治歯科に先日の神経を抜いた後の治療に行く。神経を抜いた後は何回か処置に行かなければならないのだが、次回は退院後になる。

 本日は移住記念日。2001.12.2、神奈川県茅ヶ崎市から「メイフラワー号」ならぬ東九フェリーで「新世界」のこの地に移住、今日で丸15年。いろいろなことがあった、客観的なデータとしては15歳年を取った、それから家族構成では、子どもたちの誕生、そして母の死・・・・流石に15年ともなると我が家の歴史にいろいろな出来事が刻まれた。この15年で多くの知己も得た。また多くの親戚知人と幽明境を異にした、いくつか大きな災害にも見舞われた、それらを忘れないように日々の記録として欠かさずに毎日日記を付けてきた、他人様の目に触れる日記だから良いことばかりを書きたいが現実にはそうはいかない、母の死や今回の入院手術についても、読んだ人が対応に困るだろうから適当にぼかして書こうかとも思ったこともあったが、一つウソを書くとつじつま合わせにまた別のウソを書かなければならなくなり、何よりそれでは日記ではなくなる、だからできるだけ包み隠さずに書くことにしている、それから人の名をイニシアルだけで書いたりA村さん、B川さんだとか、C山さんだとか書くと(公開用とは別に非公開の日記を書いているのであれば別だが)その時には分かっていても後になって見ると、ハテ誰だったかなということになってこれも日記として用を足さなくなる、だから、なるべく迷惑がかからにようにという配慮をしながらできるだけ実名を書くようにしている(でもこれで結構迷惑をかけているかもしれない)。
 
 そんなこんなで長いようで短く、短いようで長い15年が経ってしまった、この先、何年続けることが出来るだろう、特に近年はあちらこちらの部品が壊れて時々大きな修理をしているからなあ。

 いつもボンが映っている可動カメラ、一応プライバシーの問題もあり、なるべく居住区が入らないようにアングルを設定していたが、小生が遠隔地から我が家の様子を確認できるように入院期間中首振りの角度を少し変更した。

 畑を這い回っている散水用の長いホース、厳冬期には凍って必ず散水ノズル部分が破裂するので用心のために今のうちに撤去しておいた。その他にもしばらく留守にするのでその間にやらなければならないことを思い出してはやっている。
 
 晩飯。今日は記念すべき日なので、「すき焼き」にした。何か節目の時には不思議とすき焼きである。15年前の今夜もすき焼きだった・・・・・
 (写真1写真2
 吹部でトロンボーンを吹いている娘と音楽の話をしていて、ラベルの「ボレロ」をyoutubeで探して聴いたところ、この動画<https://www.youtube.com/watch?v=fvnKU7vmTJw>は2007年にクリストフ・エッシェンバッハが指揮するパリ管弦楽団の演奏で、エッシェンバッハはほとんど棒を振らずに眼力で指揮をしているようで非常に迫力のある演奏だ、スネアドラムがリズムを刻む指揮者の代りを務めているから最小限の指揮をしたようなことらしいが、エッシェンバッハの禿頭の表情がまた良い。

平成28年12月 3日(土)

 快晴、放射冷却でグンと冷え込む、窓の外、霜で真っ白な世界が広がっていた
    最低気温 -3.2℃ (07:58)、最高気温 16.3℃ (15:08)

 太郎の坂梨保育園。「おたのしみ会」 (プログラム)。クリスマスの時期の学芸会である。子どもたちのパフォーマンス、巧まざるユーモア、保育園の催しは本当に楽しくなる。
 おたのしみ会 連続写真 ( 1/25)
 おたのしみ会 連続写真 ( 2/25)
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 今日は夏子は中学校の吹奏楽部のコンクールで美里(だったかな)に一日がかりで出掛けていった。カミさんは、保育園の役員をやっていて、役員が演ずる交通安全の寸劇に出て、太郎の出番をみんな見てから、夏子のコンクールの方へ出掛けていった、そして、その後にはピアノのレッスン日なので帰宅は夜遅くなると言っていた。
 
 だから、今日は「お楽しみ会」が終わって、太郎と二人でジョイフルで昼食を食べて帰った。太郎は今日は留守番である。

 晩飯は、到来物の山芋で「とろろ汁」を作ろうかと言うと、太郎はやったあと喜んでいた。太郎はとろろ汁が大好きである、お姉ちゃんはあまり好きではない。ということで、とろろ汁を作って、二人でたらふく食べた。デザートはお楽しみ会でがんばったご褒美にもらってきたケーキを食べた

 小生が留守中に米が無くなりそうなので、コイン精米機に玄米30キロを精米に行ってきた。この分から今年の新米になる、小生はすぐには食べられないことになる。

平成28年12月 4日(日)

 終日ほぼ雨、気温が上がらなかった反面下がりもしなかったので寒さは無かった。
     最低気温 2.2℃ (01:35)、最高気温 11.2℃ (16:11)

 図書館に本を借りに行ったり、あれやこれや入院の準備で過ごす。
 
 我が家は日ごろ足の踏み場もないほど散らかっているのでおじいちゃんたちを迎えるために三人で大掃除をしていた。
 
 午後、カミさんの両親が到着、太郎のやつ早速おじいちゃんにまとわりついている。これで後顧の憂い無し。
(写真1写真2写真3写真4


平成28年12月 5日(月)

 本日大腸ガン(SM)切除手術のため熊本市の高野病院に入院、日記の更新は当分の間中断する。
 可能であれば病室から「掲示板」を仮の場として日記を続けたいと思っているが、体調と環境がそれを許すかどうかわからない。


(掲示板に仮置き、改めて推敲転載予定)
入院一日目

 曇り、気温は高め

 8時半ころ太郎を保育園に送つてそのままカミさんの車で入院。午前10時ころ到着、入院手続き。
 病室は515号室6人部屋、10月(10/18〜10/23)に入院した時の一階下の病室。

 昼食は五分かゆ、カミさんも外来用食事を注文して一緒に食べる。

 昼からナースステーションで主治医から手術について詳しい説明を受ける、そしてまた手術に関する各種同意書を5通り提出した。

 手術当日は家族の立ち合いが必要だが、その前に手術についての説明も出来たら家族も一緒に聞くようにとのことだったので、遠隔地で出直すのが大変だと申し出て今日の昼にしてもらったのだ。そうすると明日は来なくていいから。

 腹腔鏡手術というのはすべて腹内で手術をするのかと思ったら、臍の付近を切って、そこから大腸を外に引っ張り出して、外で縫合してから中に戻すそうである、へえ、そうなんだ、。

 じゃあ開腹したほうが早いと思うのだが、体にかかる負担がかなり違うそうである。ナマの臓器を開腹して空気にさらすと、臓器の表面にダメージを受けて合併症などを引き起こしやすくなるので、できるだけ臓器を空気に触れさせないようにするほうが良いようで、そのために、腹内で出来ることは内視鏡などを使ってモニターを見ながら外に出さないようにして行い、どうしても外でなければならない部分だけ外に取り出して処理をしてから腹内に戻すそうである。

 明日の朝までは食事が出るそうで、そのあとはどのくらい絶食になるのだろうか。

 午後からさっそく下剤を飲むように指示される。おそらく便秘を防いでスムースに排便を促すためだろう。小生は便秘はしないので要らないと思うが、まあ、そうするようになっているようだから。

 この下剤は大腸検査の時の下剤とはまた少し別のタイプで500CCのスポーツドリンクのような味がする、おいしい。コップ1パイを5分おきに飲む、人によって今晩中に催す人もおれば、明日の朝の人、また全然催さない人もいるらしい、それだけ弱い下剤のようだ。

 それからもうひとつ呼吸の練習のメニューがある。全身麻酔から醒めてから呼吸が十分にできない場合があるらしい、そのために呼吸を深く長くする訓練で、細いホース状の管を口に喰わえて、そこから息を吹いたり、あるいは吸ったりして小さなピンポン玉のようなものを管の中間付近で長くとどまらせるようにする。吹いてする場合と、吸ってする場合の二通りの訓練がある、これがなかなかむつかしい。一気に吹いたり一気に吸ったりするのではなくて、玉を管の途中でホバリングさせなければならない。朝昼晩の三回、一回につき10セットだったかどうだったか。(実際のところ、これはこれはそれほど重要視されているものでは無さそうで、まあ、一応やることになっている程度である)

 手術前の入院は少しその準備をしてあとは体力温存の為にのんびりして過ごすのかと思っていたが、次から次に課題があってそれどころではない。

 へその部分を切る関係で、臍の部分のゴマを取る作業があった、明日本格的にするらしいが今日はその前哨戦、懐かしの処置室(階は違うが10月の入院の際には、小生のイビキがうるさいと、小生は毎晩、処置室で寝させられた)で仰向きになって看護師さんからゴマを取ってもらった。

 やれやれ、これで終わりかと思っていたら、リハビリ室から人がやってきて、術後すぐにリハビリが始まるのでその準備をこれからすると言って三階にあるリハビリ室に連れ行かれる。

 この部屋はいわゆるアスレチックの施設のようなもので、いきなりベルトが回ってハツカネズミのようにその上を歩かされることになった。初めて乗るのでバランスがとりにくかったが、5分間(だったかな6分だったかな)黙々と歩かされた。それから、椅子に浅く座って、立ったり座ったりを30秒で何回出来るか、それを二回、それから、握力の検査、一分間片足立ちができるか。これらの数値が手術後のリハビリの目標数値になるとか。これで終わりかと思ったら、手術の翌日からさっそく行うリハビリの一つの予行練習、寝た状態で大きなビーチボールのようなものに足先を乗せて、左右に動かす、また、ボールに足先を乗せた状態で尻を浮かせたり下ろしたりの運動、つまり適当に腹をひねって腸に刺激を与えて癒着などが起きないようにするらしい。いやいや楽はさせてもらえないようだ。

 夕食は同じ五分粥。

 夕食後早速下剤の効果あらわる、夕食で食べたものではないが、柔らかいものをしかも少ない量を食べた端から出していたのでは力がわかない。

 前回はモバイルWiFiを短期レンタルしたが、今回はスマホをデザリングでつなぐことにして、格安SIM今月だけ少し容量の大きな契約にしておた。

 自宅サーバーの遠隔操作がなぜだか今回はできない、もしFTPが停止したら家のPCでできるように一応は準備してきたが、それを操作するカミさんがいつでもできるということではないので、「坂梨宿」には迷惑をかけるかもしれない。

大腸がん 入院録連続写真 20161205


平成28年12月 6日(火)
(掲示板に仮置き、改めて推敲転載予定)
入院二日目

 昨夜、下剤の効果大で二度ほどトイレへ、またイビキをかいて二三度看護婦さんに起こされる。それでも目が覚めた時には5時半近かった、結構寝たのだ。

 気象観測が昨日の午後2時過ぎ頃から止まっていることに気が付いて今朝、かみさんに電話をして復帰してもらった。

 自宅サーバのFTPは今(朝の時点)のところエラーは起きていない模様。

 朝食後(これがフルサイズの大腸での最後の食事)、9時にリハビリ室に出頭、15分間歩かされて、ビーチボールをゴロゴロさせる。リハビリ計画書をもらう。

 手術に備えて、毛ぞりをする、剃毛(ていもう)という言い方はしなかった。臍の付近から太もも付近まで、もちろん、秘部、秘所、隠くし所もである。昔なら若い看護婦さんの前でスッポンポンになるのは恥ずかしかったろうが、この歳になるとなんともうなくなるものである。それでも、本人の意思に反して不埒な動きをしないとも限らないのでなるべく意識を外に持っていくように努力した。
 話をしながら小さな電気バリカンでさっさとやってもらった、ついでに臍の穴の掃除。我々の年代は子供のころ、臍のゴマを取るとお腹が痛くなるからさわっちゃいかんと言って育てられたが、今の人はそんなことはなく平気で臍の穴は掃除するらしい、70数年ぶりの自分の臍の穴がきれいになったことを確認した。

 病室でドクターの鼠径部からの動脈採血があった、これは動脈に含まれる酸素量を見るためだとか、手術の際の麻酔か何かの指標にするらしい。動脈からの採血は看護師はできないそうだ。

 2時ころ、手術に備えて体をきれいにするために風呂に入った、一階にある浴場、結構広くて10人近く入れるかもしれない。10月のポリープ切除入院の際は入浴禁止だったので今日が初めてである(昨日も入れと言われたが、面倒なのでパスした、今日はそういうわけにはいかない)。

 入浴後、今回の入院で初めて点滴が始まる(本日2本)、この点滴針はこのあと何日くらい腕に刺したままになるのだろうか。並行して下剤を飲む、昨日と同じ下剤だそうだが効きがいい、すぐに最初のピーピーが来た。

 夕方、明日の手術室担当の看護師さんが事前の患者確認と手術にあたっての準備、手順、心構えなどを話にみえた。明日はベテランの医師三名と麻酔医、それに看護師三名の七人態勢でバッチリやるから安心しろとのことであった。小生は根は非常に臆病な人間であるが、不思議と(全身麻酔の)手術は全く怖くない。

 明日は昼前に手術室に入るがそのまえの準備が結構大変で朝6時ころからバタバタする、そして手術が終わるのが夕方6時ころだろうか、当人は眠っているから全くどうということはないが、待機をしなければならないカミさんは大変だろう。

 明日はとても日記などつけていられないだろうから、明日の日記は休むことになるだろう。

 大腸がん 入院録 連続写真 20161206


平成28年12月 7日(水)
(掲示板に仮置き、改めて推敲転載予定)

入院三日目、手術当日
手術内容・・・下行結腸癌(SM)のリンパ節郭清

 阿蘇は氷点下3,5℃を表示していた、カミさんの両親、初めての低温に驚いているだろう。数年前に一度、両親が滞在中に薄い氷が張ったことがあって、義父さんが家の前を通る登校途中の子供たちにその氷を見せたら、そんなもんいつも張っとる、とバカにされたと言っていた。

 昨夜はよく寝た、夜中に一度も起こされなかった、イビキをかかなかったのかなと看護婦さんに訊いたら、巡回時にかいていたので起こそうかなと思って肩に手を置こうとするとイビキがやんだので起こさなかった、それが二回ほどあったとのこと、小生眠っていても殺気を感じたのかもしれない、ということで、前夜9時から今朝5時まで一度も目を覚ますことなく眠られた。

 人によっては手術前夜は眠れないそうで、希望があれば睡眠剤を出しますとのことであったが、もちろん辞退した。

 突然思い出した。昨日「毛ぞり」をしていた時に、どうして手術部位ではない太ももまで毛を剃るのでしょうね、と尋ねたところ、電気メスのアースを太ももあたりで取るのでそれを貼るためのテープ?が剥げないように剃りますということだった。

 そうか電気メスは小生が道楽でやっているアーク溶接と同じような原理なんだろうな。小生はどちらかというと半田ごてのように高温にしたメスで焼き切るのかと思っていたが、アーク放電なんだろう。

 朝6時過ぎに点滴が始まって、また、朝6時以降、小便に行くたびに計量して記録する作業があるがそれ以外は手術の準備に入る10時ころまでは特に何もないので、後になって多分記憶が飛ぶかもしれないので朝の様子を記録しておく。

 午前中、今日これからの手術に備えて、ICUに移動する。まあ普通の小さめの病室でガラス越しにナースステーションが隣りにある。一応、手術後は家族の付き添いが出来るようになっているが、小生は当然そんなもの要らんと言ったところ、患者によっては精神的に不安になって家族の付き添いを必要とする場合もありますが、それなら安心ですね、正直言って、手術した夜は頻繁に看護師が出入りして、付添の家族はとても寝てなんかいられないので、病院側としては付き添いが無い方が気を使わなくて助かるんですよとのことで、両者の利害が一致して、付き添いなしということにした。
 
 昨日からの下剤の総仕上げ、手術室に行く前に処置室で浣腸を打ってもらった。うら若き初年兵のU野看護師さんに尻を突き出して浣腸を打ってもらうのだ、興味本位に書いているのではないが、業務とは言え花も恥じらう乙女が肛門に指を突っ込んで穴を確認したり浣腸のチューブを直腸まで差し入れたりとカミさんにも見せたことのないような部分をさらけだすのだ、正常な時にはとても恥ずかしくて出来ないようなことでも不思議と羞恥心などはわかないものである。これで腸内すべてスッキリとした。

 11時半ころだったろうか、手術着(紙製の使い捨ての寝間着)に着替えて、ストレッチャーに横になって、肩部分に筋肉注射を打ってもらった。これは予備麻酔の注射で、体をリラックスさせるための注射とのこと、弱い麻酔なのでこれで意識がなくなることは無くて、本人もちゃんと受け答えはできます、でも、後から聞くと殆どの人はその受け答えを覚えていませんけどね、と看護婦さんが笑っていた。
 
 確かに、ストレッチャーに横になってU野看護師さんに肩付近に注射を打ってもらった時までははっきり覚えているが、そして、カミさんが手術室に入るまでに何枚か写真を撮ってくれたのには、ちゃんと、反応しているが、当人は全くその記憶が飛んでいる。写真を見るとサービス精神が旺盛と言うのか、各所で小生はピースサインを出している、アホだねえ。
 
 このあと、手術室に入ってから硬膜外麻酔の相当長いチューブを背骨に沿って挿入する作業があったらしい、たしかに前日その説明を受けていた、チューブが入りやすいように体を卵のように丸めるようにするのだったが、本人全く記憶にない。
 
 次に気がついたのは、いやに明るい天井と、非常に甲高い金属音と人の声、それから主治医の終わりましたよ、今午後8時で予定より一時間ほど長くかかりましたが無事に終わりましたよという声だった。その時にまたこの世に舞い戻って来たのだった。これだから小生は全身麻酔の手術は全く怖くないのだ、本人はその間全く記憶が無いのだからこれほど楽なことはないのだ、万一、これで逝ってしまってもこれほど楽なことは無いのだ。

 カミさんは、ということは昼ころから7〜8時間待機していたことになる、これは大変なことだったろう。手術が終わって、先生がカミさんに現物、つまり小生の取れとれの大腸を前にして、説明をしてくれたそうだ。カミさんがリンパ節ってどれですかと問うと、先生がハサミでパチパチっと切って、これがそうです、と言って示してくれたそうだ、別に気持ちが悪いことはなかったと言っていた。もうだいぶん前になるがカミさんは小生の白内障の手術の時も別室で生中継で小生の目ン玉をいじくり回すシーンを見ている。本人が見られないのはなんとなく不公平のような気がするが、仕方がない。今回も生モノなので取って置くことが出来ないので本人には後から写真を見せながら説明をするとのことだが、次回の外来の時の楽しみということになる。

 手術は全く苦痛ではなかったが、終わってからがちょっと大変だった。手術室からICUに戻って(その道筋、なんとなくその記憶があるような無いような)、鼻から胃にかけてチューブが入っていて、その上に口にはガッチリと酸素マスクがしてある、ノドがカラカラなのに一滴の水も飲めない、これは苦しかった・・・・・・
 大腸がん 入院録 連続写真 手術当日(20161207)



平成28年12月 8日(木)
(掲示板に仮置き、改めて推敲転載予定)

 手術の翌日
 手術後の痛みは硬膜外の麻酔が常に効いているので全く痛くはない、ただ水が一切飲めないのがツライ。腸内は空っぽだから便意は催さない、小便の方は手術の麻酔の間にカテーテルが挿入されたようで、勝手に外にぶら下げた袋に排泄されるようになっている、この排尿のためのカテーテルは細い尿道ななかをどのくらいだろうか膀胱までチューブは入っていて、これが何かの拍子で尿道を刺激する、これがなんともぴりぴりと気持ちが悪い刺激がある、女性の場合はその構造上カテーテルのほうが楽でいいというが、オトコの場合はゴメンである。

 点滴は24時間エンドレスで続いている、体についたチューブは、そのほかに、腹腔鏡の手術の際に鉗子を入れるために開けた四隅の小さな穴のうちの左上の胸のところの穴に、リンパ節や血管などを取ったあとから出る排出液を溜める袋につながったチューブが十数センチ挿入してあった、そこから血が混ざった体液が時々流れ込んでいる。

 胃チューブと酸素マスク外れる。

 後から記憶を辿ってこの部分を書いているがその他にはただじっと寝ているだけだった。ような気がする。カミさんが来てくれたと記憶しているが。この日の写真は一枚も無い、さすがに撮る余裕は無かった。



平成28年12月 9日(金)
(掲示板に仮置き、改めて推敲転載予定)

 イテテ、手術は無事に終わって回復も順調ながらチューブやケーブル類をたくさんぶらさげて加えて地獄のリハビリ始まっていて日記を書く余裕がありません、イテテ、
皆さんへ返信も書けません、ゴメンナサイ。

 小便はカテーテルが受けてくれるが、大便はトイレに行くことが出来ないので紙おむつをしているから垂れ流すしか無い、手術直後は腸も大人しくしていてくれるが、暫く経つと独自で動いて食べなくても体内の老廃物で腸内に少しずつ排泄物がたまりだす、腸は切ったり繋いだりしてかなり乱暴にされたので、勝手に騒ぎ始めて盛んに便意を催す、小生は紙おむつに垂れ流すのだけは絶対にしたくなかったので、看護婦さんに寝たきりで尻の下に充てる差し込み式の便器を浮かした尻の下に置いてもらった。でも食べていないので便は出ずに粘液と屁が出る、縫い目が痛くて軽い咳をしても腹に響く、痰がからんでそれを出そうと咳をするがわずかの咳でも腹に響いてそれが出来ない、排便もいきむことが出来ずに自然に出るしこ(「しこ」とは「だけ」というこの地方の方言である)しか出ない、だから、ほとんど一時間おきくらいに催す、その度にナースコールで看護婦さんに来てもらって、そして終わって腰を浮かして拭いてもらう、ずっとその繰り返しだった、看護婦さんにそんな無様な格好を見せてもそれでも紙おむつに垂れ流すのだけはしたくなかったのだ。

 今日も、カミさんが熊本市内で忘年会があるとかで、そのついでに寄ってくれた。
 今日も写真は一枚も無い。


平成28年12月10日(土)
(掲示板に仮置き、改めて推敲転載予定)

 金峯山の上を飛行船が飛んでいた。

 本日カテーテル抜去、これでようやく紙おむつから解放される(カテーテルのチューブが邪魔で普通のパンツが穿けないのだ)、自分のパンツになった、小生にとってこれが一番嬉しい。カテーテルも紙おむつもなんだか人格を否定されているようでいやだった。背中に入っていた硬膜外麻酔のチューブも抜いてもらった。体を束縛していたチューブが一本一本減っていく、残りは手術部位の排液を抜くドレンと点滴のチューブの二本のみ。水を飲む許可も降りた、一日に500ミリリットルぐらい飲んで良いとのこと。でも待ち焦がれていたほどの感動は無かった、手術直後飲んではいけないと云われていた時、ウッカリ間違って飲んでしまったウガイ用の少量の水の方が美味かったなあ。今日一日でやっと娑婆に帰って来た気がする。
 
 確か、紙おむつをしていながらも自分でトイレに行って排便をすることが出来るようになったが後から思い起こそうとするがその前後関係の記憶があやふやになっている、相変わらずいきむことが出来ないので、本来なら一度で済むようなことを一時間おきくらい、それも夜を通して、トイレ通いをした。まだICU

 村の隆一さんが見舞いに来てくれた、携帯が鳴ったので取ると、今下に来ていると言う、三階の面会室で待ってもらって降りていった、彼も昔この病院のお世話になったそうでよく知っていた。


平成28年12月11日(日)
(掲示板に仮置き、改めて推敲転載予定)

今日で丁度一週間か、あっという間、と言った感じた。
日曜日なのに回診があった、順調に回復しているそうだ。
基本的には痛くはないのだが身体を動かす時に痛いような気がすると話したら、痛み止め飲のんでみますかと、ロキソニン系の錠剤と胃薬をくれた、強い薬ではないので効いたのか効かなかったのか判らない、とにかく普段なんとも無くとも、咳をする時の痛さと言ったらそれはもう例えようの無いほどの痛さである。今晩は飲まないでおこうか。

 この病院のリハビリは有名だそうで、他の病院では入院前より体力を落として退院するけどここでは体力を上げて退院させる、と理学療法士(PT)が豪語するのもあながち嘘では無さそうである。

 昨日はトレーニングルームでのリハビリのあと、病棟の廊下を7往復を朝昼晩で三回やるように言われた、一往復が100mあるそうだから700*3=2100mになる。なんとなく中途半端な数字だな、と、10往復三回、3000m歩いた、今日は日曜日でリハビリは休みだが宿題で10往復三回やるように 言われていたが、1500*3回、4500m歩いておいた、とにかく回復に運動は非常に有効だそうで、特に腸を切った人は腸閉塞を起こしやすいそうで運動は大切だそうだ。特に開腹で切った人は長時間腸を空気にさらすことになるので腸閉塞を起こしやすいそうである。小生の場合は、腹腔鏡だったのでそのリスクは低いとのと、皆さんそれぞれ手術箇所は違うのだろ、色んな点滴袋がぶら下がったスタンドを押しながら回復に努めて一生懸命廊下を歩いておいでである。
 
 夕方の回診で「明日の朝からゴハンがでます」「おもゆですか?」「五分がゆです」、もう一週間食べていなくて、食べるのを忘れてしまったので、思っほどの嬉しさは無い。これも重要な回復訓練だそうだから一生懸命食べるとするか。
 
 今日家族皆で見舞にきてくれた、カミさんの両親も一緒だった、太郎のやつ、嬉しそうでちょっと恥ずかしそうだった、お姉ちゃんは風邪気味だったので遠慮して家で留守番していたそうだ、後からLINEで、行けなかったのは残念だったけど、寝られ幸せだったと送ってきた、娘はとにかく眠るのが好きである。カミさんは汚れモノを屋上にある(という)コインランドリーで洗濯して帰っていった
写真1写真2


平成28年12月12日(月)
(掲示板に仮置き、改めて推敲転載予定)

 今日もいい天気だ。

 もう何日ぶりになるのか、忘れてしまったほど長期間絶食が続いていたが今朝から食事が再開された。これだけ長い間食べないと、点滴を受けていたからだろか食欲も無く、食べたいとも思わなくなっていた。

 五分粥にちゃんと副食も付いたメニューだった、まだ点滴を受けているので病室まで運んでくれた。無理に食べなくてもいいからと言われていたが、回復訓練の意味もあると聞いていたので一生懸命に食べた、全部食べて食べられないことはなかったが、久しぶりに食べてあとから変調をきたすとよくないと思って全体の9割くらいの量を食べておいた。

 午前中に手術当日から入っていたICUを出て一般病棟に戻った。同じ515号室だが、窓際のベッドになっていた、熊本市内が一望できて素晴らしい位置である。ベッドも電動の姿勢を変える装置付きである。

 昼少し前に、小生の宮崎のハチの師匠、じっちゃいが熊本市での定期健診の帰りに顔を見せてくれた、病室のカーテンからヌッと顔をだしたので、確か平日の面会は二時になっていたと思ったが、看護婦さんに許可をもらってきたそうで、三階の面会室に降りてしばし歓談した。じっちゃいの今回の健診もセーフだったそうである、よかった。

 昼食から完食した、まだ本当に食べたいところまでは行っていないが、朝食の反動もなかったのでどんどん食べることにした。

 食事が出始めたので点滴は昼過ぎまでの二本で完全終了した、手術当日から24時間エンドレスで続いていた点滴、今後一切不要だそうで、また新たな開放感を味わう。同じ場所に刺した点滴針はあまり長くは使い続けることが出来ずにしばらく打つと液が流れ込まなくなるのでまた新たに場所を変えて点滴針を打ち直す、普通の注射針より太いので刺す場所を探すのが結構大変らしくて、特に小生の静脈は探しにくいようで看護婦さんも苦労していた、結局今回の点滴で三ヶ所ほど打つ場所を変えただろうか。残るはドレンだけである、これがが取れると風呂にも入れるようになるそうである。

 今はまだ風呂に入れないので体拭きが終わったあと、処置室で足湯を作ってくれて温かい薬湯に足を浸けて看護婦さんがきれいに洗ってくれた、これに限らず、手術直後などは全身を蒸しタオルで拭いてくれたり、まるでハーレムの王侯貴族になったような気分になる。看護婦さんたちのいろいろな汚い作業にもイヤな顔一つ見せずに笑顔でやってくれる姿勢には心の中でも手を合わせて感謝している。他の病院でもそうだったが、入院患者にとって看護婦さんは本当に白衣の天使である。

 リハビリの歩行訓練の途中、看護婦さんに呼び止められて、点滴がなくなったので、ドレンだけ体からぶら下げたらもうガラガラとスタンドを押して歩かなくてもいいのよ、と腰からドレン袋を下げるようにしてくれて、スタンドはベッドに戻しておいてあげると言って途中から両手をフリーにしてウォーキングをした、「歩行訓練」から「ウォーキング」になったのだ、おかげさまで実に軽快に歩くことができるようになった。

 晩飯完食、まだ食べたくて食べているわけではない。

 今日も1500×3回の4500m、自主トレをした。

 今回の入院に際してノートPCも持ってきたが、とてもセッティングする気になれず、スマホで情報発信をしてたが、スマホの文字入力は本当に不便だ。今日になって、病室も決まり、ようやくその気になってノートPCを引っ張り出した。これで文字入力が容易になったので明日から皆さんからの「ガンバレ」に少しずつ返信ができるだろう。

 残るはイビキの問題だ、患者さんもどんどん入れ替わっており、今回は同室の患者さんとコミュニケーションがとりやすく、カーテンを開いて雑談ができる、「そんなの気にしなくていいですよ」と皆さんおっしゃっていただいているので少し安心した、もっとも明日の朝になって皆さんの寛容度が本物だったか、想像していた程度のイビキだったのか分かろうというものである。

 夏子、今日学校を休んだそうだ、今マイコプラズマが流行っているとか、心配なのでおじいちゃんに古閑医院に連れて行ってもらったそうだが、検査の結果陰性だったそうでよかった、おじいちゃんたちがいてくれて本当にありがたい。
大腸がん 入院録 連続写真 20161212



平成28年12月13日(火)
(掲示板に仮置き、改めて推敲転載予定)

 ここ熊本市も阿蘇市も今日は雨模様の一日だった。手術をしてから今日で丸一週間だ、あっという間の一週間だった、入院していると、特に手術をしてから毎日いろいろなメニューがあって何かと忙しくて昼寝なんかしている暇がないほどである、それでも一般病棟に戻ってきてようやく自由時間が少し取れるようになってきた。

 朝食から全粥になった、塩鮭などが付いたが、如何せん、塩味がほとんどしない。本当に上手い粥や鮭なら薄味でも美味いのだろうが入院食にそれを求めるのは無理というもの。別に塩分制限の病気ではないのでもっと塩味の効いた食事をしたいのだが、娑婆人は普段から塩分の摂りすぎということで塩分制限食とは無関係に病院食は塩分が薄い。その話をすると、看護婦さんが、そうなんですよねえ、そして独り言で、皆さん売店で食卓塩や梅干を買っているみたいですよと言っていた。

 なるほどなるほど、昼食からさっそく塩をタップリふりかけて全粥を食べた、これでなくては。

 昼過ぎ、トマト農家のe鴨氏が熊本まで用があったのでと帰る途中に寄ってくれた。

 今日は頭を洗ってもらった、体拭きは毎日4枚の蒸しタオルでしているが、頭は手術日以降初めてである、ちょうど一週間ぶりで気持がよかった。

 国道57号線の立野から阿蘇谷までが熊本地震で壊滅的被害を受けて以来、加藤清正が参勤交代やイザ鎌倉に備えて開鑿した豊後街道の二重峠越え、清正公道(セイショウコドウ)を通って赤水に通じる代用道路が重要な役割を果たしている。この道路は急坂が続くせいかほとんど毎日のように故障車で大渋滞する、またこれからの雪のシーズンを前にして、もっと道路の情報が欲しいという声が強くあったのだろう、ようやくライブカメラの運用が始まった。ライブカメラの鉄塔工事は確か20基くらいしていたと思うが、現在のところ数基だけの公開のようである、いずれ全カメラを公開運用するつもりなのか、その時々でカメラを切り替えるようにするのかわからないが道路の様子がよく分かるようになつたから良い、と褒めようかと思ったが、相変わらずのお役所仕事、どちらからどちら方向なのか、道路をよく知っててもわからない。画面のテロップに距離ポストの数字と上下が表示されるが、これをみて一般の人が分かるか?どこかに説明があるだろうか。上下は熊本に向かうほうが「上り」で「上」なのか、外輪の坂道を上る道路が「上」なのかこれじゃあ分らんだろう、と思うがこかに説明があるだろうか。

 どうも食欲がいまひとつで、夕食は少し残した、肉というと白身の魚かパサパサの鶏のササミだけだ、予算の関係か、栄養学上の理由なのか、「ニク!」を食ってみたいものだ。

 今日もサボらずに自主トレでの1500×3回の4500m歩いた。歩いたあと急に催したのでトイレ行ったところ、食事を再開して以来、初めて便通らしい便通があった、昨日から食べているのに出ないなあ、腸閉そくでも起こしているのかなとちょっと不安だったが、ショートカットした大腸を通って確かに排便があった。

 カミさんが7時過ぎに来てくれたた、夏子は用心の為に今日も学校を休んだそうだ。カミさんの車にはAPRSが搭載していないので、スマホにGPS位置確認アプリを入れるように言っておいた。

 ざっとこんなところか今日は。
 大腸がん 入院録 連続写真 20161213



平成28年12月14日(水)
(掲示板に仮置き、改めて推敲転載予定)

 今日も終日雨模様、病室の窓の外には陰鬱な熊本市内が広がっていた。

 今日は屋上にあるコインランドリーに洗濯をしに行った。6階まではエレベータがあるがその上の屋上に行くには階段しかない。リハビリのトレーナーに階段を上り下りして構わないかと尋ねたところ、構わないとのことだったので、数日分の汚れ物を袋に入れて洗剤を持って上がったが、財布を忘れて取りに戻った、そのあと乾燥の追加などで上ったり下りたりを何度かやったが、さすがに階段の上り下りは疲れる。洗濯機(3キロ容量だったろうか)は100円、乾燥機が40分で100円、街のコインランドリーよりも安価な気がする。

 体につながった最後のチューブ、リンパ節の切除の際の血管の切り取りなどでずっと少量の出血とそれが混ざった体液(この場合の体液は新聞などで言う意味不明の体液と違って文字通りの体液だが)を体の外の袋に溜める結構太いチューブが胸のところに刺さっていたが、昨日の先生の話では、明日抜きましょうかね、とのことだったのに、今日一日その気配がない、まだ排出液が赤いから今日は「無し」かなと思っていたら、5時半ころ、突然看護婦さんからナースコールで、今から抜きますよ、と連絡が入ったので、いそいそと処置室に行って、主治医のT医師に抜いてもらった。チューブが抜けないように縫ってあったようで、ハサミでプチプチ切ってからそっと抜去した、長さが15〜6センチほどある点滴チューブより少し太いものが腹のなかに入っていたわけで、抜くときに少しなんとも言い難き感触があったが、それもそうだが先生に聞き洩らしたが、今まで皮膚に穴が開いていて麻酔も痛み止めも打っていないのに何日もどうして痛くなかったのだろう、そして抜いた後も全く今まで刺さっていたという皮膚感がない、これは是非とも確認をしておこう。

 先週の今日、手術したのだった、これで完全にヒモ付きでない自由の身になった、ありがたい、カテーテルを抜いた時の喜びと並んで嬉しいことだ。

 今日も自主トレで1500m×3回の4500m歩いた。最後の1500mは勿論ドレンを腰からぶら下げずにである。
 大腸がん 入院録 連続写真 20161214


平成28年12月15日(木)
(掲示板に仮置き、改めて推敲転載予定)

今日もはっきりしない一日だった。

 昨日胸のドレンのチューブが抜けて、今日からシャワーが解禁になった。シャワーだと良くて浴槽に入るのはどうしてだめなのか、今回に限ると合理的な理由がありそうにもないので、シャワーだけだとかえって風邪をひくといけないので独自判断で浴槽にどっぷり浸かった。何日ぶりだろう、風呂ギライの小生にとっても実に気持ちのいい風呂だった。あとで看護婦さんにその話をしたところ、笑っていた、まあ、心臓の悪い人など、ずっと入っていなかったところにいきなり浴槽に入って何かあるといけないので一応そうなっているのだろう。

 胸のところには相変わらずクレーターのようにポッカリドレンチューブを抜いたあとの穴が開いたままである。看護婦さんに塞いで風呂に入らなくていいのですかと問うたところ、いいのです、中ではちゃんと塞がっているはずですからという、へえ、そんなもんなのか。頭を洗ってあとは適当にざっと洗って、湯船にジャポン、結構広い浴場、たまたま誰も居なかったので独り占めだった。

 風呂から上がって、病院の寝間着を脱ぎ捨てて我が家から持って行った作務衣を着た、腹帯ももう不要になった。あと病院では何もすることはないので小生の中では治ったつもりなので、病院の寝間着から卒業することにしたのだ。それと同時にもういつでも退院できるぞとアピールする意味もあった。察した看護婦さんが一日でも早く退院できるよう先生にお話しておきますね、と言ってくれた。

 確かにもう病院でやる治療は何もないのだ、あと体力があれば自宅で回復に努めたらいいだけなのだ、だから全くの小生の心づもりだが土曜日あたり退院許可がおりるのではと期待をしているところである。当初、大体 3〜4週間で退院になるという説明もあったと思ったがそれからするとちょっと勇み足かな?

 午後からリハビリ室で手術後の体力測定があったが、ほぼ手術前の体力に回復していた。それをもってしても退院には全く支障はないのだ。

 今日カミさんが、彼女が受けている定期的な検査で九品寺近くの病院まで来たついでに、病院に寄ってくれたので、もう不要になった下着類をほんの一組程度組残して全部持って帰ってもらった。

 今日の晩飯は久しぶりに美味かった、調理は同じだからそれを感じる体調のほうの問題だろ。売店で梅干しを買つた。

 今日午後からの体力測定で少しハードな運動をしたので、日課のウォーキングは1500mを2回にしておいた。

 白州のどんぐりさんが脊椎管狭窄症で明日手術だそうだ、今日入院されているはずだ、ご気楽に行ってらっしゃい。そういえば、今日の体力測定の時に、となりでリハビリを受けていた手術を目の前にした若い女性が麻酔や手術に対する強い不安をもらしていたので、手術なんて何時間かかろうとも寝ている間に終わるから全く心配いりませんよと、小生の腹の傷を見せて元気つけておいた、術後一週間でそんなに動けるようになるのかと驚いていた。手術なんてそんなもんなんだから。
 大腸がん 入院録 連続写真 20161215



平成28年12月16日(金)
(掲示板に仮置き、改めて推敲転載予定)

 久しぶりに青空が広がっている。病室のすぐ目の下、帯山中学校の正門前には「挨拶運動」だろうか、当番の中学生たちが並んで次々に登校してくる仲間たちに向かって大きな声で「おはようございます」と呼び掛ける元気な声が病室まで響いてくる。

 ひむがしののにかぎろひのたつみえて、かえりみすればつきかたぶきぬ・・・・・・・だれだったかな・・・

 阿蘇方向に朝日が昇り始めるころ、反対の西の空、金峰山の上空には満月が沈みかけていた。ライブカメラに映る阿蘇五岳は積雪で白くなっていた。少し前から積雪はあったのだろうが、これだけはっきり見えるのは今朝が初めてのような気がする、今までは見えていたのに見ていなかっただけかもしれない。

 昨夕、T医師が見えて、帰りたいですかあ、もうちょっといたほうがいいんだけどなあ、じゃあ、土曜日まで居て日曜日退院ということにしますかと許可がおりた。退院後、年明けて10日に外来で病理検査の結果を聞くことになる。入院費の概算計算書も届いた。ウーン、これだから日本の医療保険財政が破たんするわけだ、日本は世界一の社会主義国だよ、志位クン、瑞穂クン、ついでに蓮舫クン。

 今朝のリハビリで、30〜40代の患者さんではいたけど、小生のような「高齢者」でのこれだけ早い退院は驚異的ですよとのことであった、日ごろの基礎体力がものを言ったのだろうと思っている。リハビリのあと自宅で行うリハビリのメニューの説明を受けた。今日のリハビリのウォーキングのメニューは10%の傾斜を時速4.5キロで15分歩くというものだった。ということは勾配10%の坂道を15分かけて約1キロ歩くということになるか、ちょっと汗をかいた。

 風呂は面倒だからやめた。

 食事のことであるが、入院患者のうち、「健康体」の人は各人三階にある食堂兼面会室兼喫茶室に降りて食べるようになっているが、小生、点滴などのチューブが取れた後も食事はずっとベッドまで届いていた、持ってきてもらうのは悪いので、(また、となりでずっと絶食中の人もいるので)下で食べる旨を申告して夕食からそのデールームで食べた。

 ついでにもう粥は勘弁してほしいといったところ看護婦さんが先生には事後報告で、と夕食から普通食に切り替えててくれた。しっかりと炊いた銀シャリ、久しぶりに生き返った気分だった。粥もいいけどこう毎日だとな。

 午後、栄養士さんから退院後の食生活について三階のデールームでレクチャーがあった。総じていえば一般的に健康的な生活を送るために食べていいもの食べてはいけないものがあるが、それと大体似たようなものだ、肉なら鶏肉、ササミなら尚良し、牛や豚ならロースなどの脂分が多いものでなくてヒレ、魚はいい、と言ったようなものだ。ただ一般的にはなるべく繊維質のものを食べたほうがいいというがこの病気の今の段階では、腸の縫合部分に未消化の食物の繊維が引っかかるとそれに別の食べかすが付いて腸閉そくを起こす恐れがあるので繊維物はなるべく避けたほうがいい、食べる場合は繊維を断ち切る方向に包丁を入れて調理をして食べるようにとのことであった(つまりは、繊維を短くすれば何を食べてもいいということだ・・・ろ?)。コーヒーも好ましくない分類に入っていたなあ、コーヒーは刺激物だそうだ、でもこれは偏見だろう、日に何倍も飲んでいれ別に刺激物だという認識はないのですがと言ったところ一二杯くらいならいいかな・・と妥協してくれた。まあ、そんなもんだろう。奥様にもこのことは良く・・・とのことであったが、我が家でが小生が主夫ですからと言ったら笑っていた。

 レクチャーが終わって病室に帰ろうとするところでJLZとばったり、見舞いにきてくれた、ありがとう。

 白州のどんぐりさん、今朝の掲示板に、いよいよこれからまな板に乗ってくると書き込みがあった、手術直前の投稿である、大したものである。もう無事に終わっているだろう。

 カミさんの車にはAPRSが無いので、GPSや携帯電話網アンテナを使ったスマホの位置情報アプリを入れさせたが、これはなかなかイイ、今どこにいるかわかる、子供にも持たせると安心だが、まだ持つことはできないようだ。小生はアプリ一覧の一番上にあったLife360という基本無料のアプリを入れた。隠密行動をとりたい人間には迷惑なものだろうが、モバイル通信環境はアイデアひとつで無限の可能性がある。

 今日も4時過ぎに動画カメラでおじいちゃんが軽トラに乗って出かけたので太郎の迎えかな、いやに早く出るなあとAPRSを見ていると(おじいちゃんもHAMである)保育園とは反対方向、中学校に向かっている。そうか夏子はまだ本調子でないので部活は休みで、おじいちゃんは夏子を迎えに行ったのだなと思っていたら、予想通り、夏子を乗せて帰ってきた、時間的に、夏子を降ろして折り返し保育園かなと思っていたら、おじいちゃんもそのまま家の中に。そうか太郎はカミさんが迎えに行くのだなと、位置情報アプリを見ると6時前に職場を出たカミさんの車が保育園に。確か6時が保育園の定時のはず、見ていると3分ほど遅刻している。そして太郎を乗せたカミさんの車が無事に家に帰ってきたのを動画カメラで確認した。

 もういいようなものだけど、今日も律儀に真面目 1500m×3回の4500m歩いた。これも今日までにしようかな。
 大腸がん 入院録 連続写真 20161216


平成28年12月17日(土)
(掲示板に仮置き、改めて推敲転載予定)

 阿蘇地方今朝もかなり冷え込んだようだ。

 今日はもうほとんど何もなかったなあ。

 午前中、主治医とは別の先生の回診があり、うん、だいじょうぶですね、傷跡もきれいだ、と診断がおりた、ついでにこれ僕が縫ったんですけどねとのことだった、三人の執刀医のうちのお一人だったのだ。

 回診がちょうど廊下ウォーキングの途中だったので10回ほど歩いたところで中断して、これにて今回のウォーキングを閉めることにした。

 昼ころ、JDX関本嬢が見舞いに来てくれた、昔クマデンでお世話になったYL局である、現在は県庁で働いておいでで見るたびに若返っておいでだ。

 午後風呂に入ってさっぱりする。

 5日入院、7日手術、手術後今日で10日か・・・なんだかあっという間だったなあ。

 夕方、主治医の先生が顔を出され、用心の為に、下剤と下痢止めと整腸剤と化膿止めを出しておきましょうとのことだった、退院後はまだしばらくじっとしておれということなんだろうな。
 大腸がん 入院録 連続写真 20161217


平成28年12月18日(日)

 阿蘇、放射冷却で多分今季最低気温だったろう、12月中にこんなに気温が下がるのも珍しいことだと思う。熊本市の空も綺麗な青空で明けた
    最低気温 -6.1℃ (08:08)、最高気温 10.8℃ (14:36)

 12月5日(月)に入院して、本日無事に退院することが出来た、小生のような「高齢者」としては驚異的な短期入院だったそうだ。
 沢山の皆さんに「励まし」をいただいた、本当に有難かった。
 
 。朝食を食べて午前9時には会計を済ませて、隣の窓口で念のための薬をもらってそれで総て退院手続きは終わりである。今回の入院費用、手術代、入院費総て込で53,000円ちょっと、信じられないほどの金額である、日本は高齢者が優遇されすぎているのではと高齢者当人が感じる。
 
 あとはさっさとチェックアウトすべきところ、今朝は寒かったこともあってゆっくり出てくるようにカミさんに言ってあったので、昼近くまでは不法滞在者的にベッドで所在無げに過ごした。(ゆっくり来るようにというのはもう一つ、実はこれのほうが主な理由だったのだが。)
 
 迎えにはカミさんが太郎を連れて来てくれた。太郎も父親と話すのは久しぶりなので少々興奮気味だった。夏子は今日は校内駅伝大会があるそうで、平常どおり登校したそうである。
  
 ナースステーションで認識票を切ってもらってようやく自由の身になって高野病院を後にした。そしてゆっくり迎えに来るようにという理由であるが、昼飯にトンカツを食ってから帰るためであった。
 
 病院食は、日本人は日常的に塩分を摂りすぎだという理由でとにかく塩味が薄い、別に塩分制限のある病気ではないのにとにかく病院食は塩分が少ない、少なすぎる。健康人が健康のために日常的に塩分を控える努力をしろというのは分かるが、現に病気で食欲もない患者にそんな美味くもない病院食を食べさせるのはちょっと順序がちがうだろうと思う、今は少しでも美味しいと思って食べさせることのほうが重要だろう、何より美味しいと感じて食べることが一番体にいいのだ。塩分制限の効果なんてそう短期間であるものでもあるまいに。と思う。申し訳ないけど食事は戴けない、先生の腕は当然一流だろう、それよりも高野病院の看護婦さんたちはこれはもう文句無しに特級である。
 
 ということで、とにかく、シャバのしっかりと味が効いた食べ物、特にトンカツを食ってから帰ろうと思っていたのだ。退院を前にした栄養士による栄養指導があった時に、何はさておいても、トンカツは食べて良いかと訊いたほどである。
 
 病院を出て、まずカミさんにコンビニでウスターソースを買ってこさせて、大津の「浜勝」に乗り込んだ。小生はもともとドローっとしたトンカツソースよりはウスターソースでトンカツを食うのが好きで、昔、「浜勝」でウスターソースは無いかと訊いて、ありませんとニベもなく断られた記憶があったので、それじゃあソース持参で行こうじゃないかと前々から思っていながらなかなか実行したことは無かったことを今日はやったのだ。
 
 いやあ、久しぶりのシャバの味、旨かったなあ・・・・腹もトンカツを受け入れて心地よく蠕動してるのが分かった。
 
 57号線の迂回道路も順調で3時前には無事家に帰り着いた。やはり家が一番イイ。義親父(おやじ)さんが物置など綺麗に片付けてくれていた。両親には本当に面倒を掛けた。
 
 自分の定席に落ち着いて落としてあった小生のPCなどに通電してシステムを回復させてから、久しぶりに「刺激物」として飲まないほうがいいというコーヒーを淹れて飲んだ。小生にとってはコーヒーは決して刺激物ではない、心地よく胃の腑に染み渡っていった、体に合う合わないは自分の体が一番知っている、いままでなんとなく落ち着きがなかった臓腑が実に穏やかに腹内に収まっている。
 
 留守中はミツバチのカメラも切って行っていったが、ハチウトの前に行ってみたところ、今日のような寒い日でも日中に10℃前後気温が上がって風が無かったので、ハチの出入りがあった。中には黄色い花粉を抱えて帰ってくるハチもいた、セイダカアワダチソウの花粉だろうか。
 
 夕方、区長から電話で「オイ今日病院に見舞いに行ったらもう退院したって言われたぞ」いやあ申し訳なかった。
 
 今日からアゼリアに行ってお風呂仲間の皆さんに手術跡をご開帳しようかと思ったが、まだちょっと汚いので、もう少し経ってからにすることにした。家の風呂に久しぶりに入って体重を量ったら、入院前に比べて約4キロ減っていた、この体重を維持できたらいいがどうせすぐに元に戻るのだろう。
 
 明日から早速動こうと思っていたがしばらくはノンビリしていろと言う、まあ、一応そういうことにしておこうか。


平成28年12月19日(月)

 快晴
   最低気温 -1.6℃ (05:10)、最高気温 16.3℃ (14:12)
 
 今日から太郎の保育園送迎再開。
 
 カミさんの両親が、二人三脚で電動チェンソーを使って薪作りをやってくれた。慣れない作業なので見ていて危なっかしいがすぐに慣れるだろうと思って、現場を離れた。両親は一日薪作りに励んでくれた。小生はまだ腹の縫い目が突張って痛いのでおとなしくしていた。


平成28年12月20日(火)

 ほとんど終日、細かな雨が降ったり止んだりしていた。
    最低気温 5.9℃ (00:00)、最高気温 13.8℃ (15:38)

 小生、チェンソーはどうだろう、腹に響くかなと、動かしてみたところ、腹の縫合した部分には全く影響がないことがわかった、ただ重たい木をひっくり返したりするのに腹にどう響くかわからないが、まあ一人で薪作りも大丈夫だろう。最初の頃は小さな咳をしてもビリビリ腹に響いて痛かったがもう殆ど痛くなくなっている。 
 
 電動のチェンソーだとやや力強さに欠ける嫌いがあるので今日はエンジンチェンソーをオヤジさんに手ほどきをしたので裏で太い木を選んで盛んに切っていた。

 そしてお母さんも一緒になって二人で時々細かな雨が降るなか、いやに一生懸命に薪を作っている。もしやと思って、早く帰りたい一心で作っているのでしょうと問うと、そうだ、22日には帰りたいと思っていると言う。先日はクリスマスを子どもたちと一緒にやってから帰るということだったと思う、子どもたちもそれを楽しみにしているからもっとゆっくりしてくれと言っておいたが、オヤジさんは突然に行動開始をするという前歴もあるから、果たしてどうなるやら。どうやら小生少し早く出てきすぎたかな。
総務課から阿蘇山噴火警戒レベルの引き下げについてお知らせします。
本日、福岡管区気象台から阿蘇山の噴火警戒レベル3(入山規制)から2(火口周辺規制)に引き下げの発表がありましたのでお知らせします。
これに伴い、阿蘇火山防災会議協議会では、山上広場の一帯の安全確認をするとともに、観光客等の安全が確保されるまでは、これまでの自主規制を継続します。
なお、監視体制を含め山上広場一帯の安全が確認され次第、二次規制から一次規制へ移行を予定しております。
(阿蘇市総務課)
まあ良かった・・・・・でも小生は気象庁を信じていないけどね。そして夜に入って、ライブカメラを見ると結構噴煙が上がっている、気象庁の火口カメラに切り替えてみたら、大きな火映現象が見えている、これで噴火警戒レベルを下げて良いのか。

 この日記を書いている時に時計を見たら午後8時になろうとしていた、そうだ、ジオスペース探査衛星(ERG)/イプシロンロケット2号機 打ち上げがあったのだ、急いでネットの中継画面を見たところ、予定通り打ち上がったので、「内之浦だから、ここからでも見えるはずだぞ」、と家族に言ったところ、半信半疑で根子岳の上空を見ていたら、オレンジ色の尾を引いてはっきりと右から左方向にロケットが上がって行くのが見えた。「あっ、あれ!見える!へえ、見えるんだあ」、と娘達は歓声を上げていた、間もなくその光も雲の中に消えていった。

 打ち上げを見ていて、無事に上がるかなあという心配はもう全くしなくなった、当然上がると思ってい見ている、日本のロケット打ち上げ技術は大したものである、一度でも失敗するとこの先、成功率は限りなく100%に近づくことはあっても決して100%になることはないので、最初の一回目はもう計算から外しても良いと思うのだが。そのうちにロケットの打ち上げもニュースになることも無くなるかもしれない。

平成28年12月21日(水) 一陽来復

 毎年冬至の日、日没を写真に撮ろうと思ってたがいつも雨などで太陽を見ることが少なかった、今年は午後5時少し前、なんとか米塚の横に沈む太陽を撮ることが出来た
 
 夜に入って雨だという予報が出ているが日中は薄日ながら晴れた。今日は暖かい一日だった。
   最低気温 10.7℃ (07:27)、 最高気温 17.1℃ (15:17) 

 気象庁の「高解像度降水ナウキャスト」http://www.jma.go.jp/jp/highresorad/ で今日から雷情報の提供が始まった由、今まで無かったほうがおかしい、電力会社などではとっくの昔からやっているのだから。

 ハチウトの掃除をした、給餌器を買ったので給餌を開始する前にザッとウトの中を調べたのだ。当然もうスムシは居ない、巣板のカスだけが下に落ちている、巣板もハチの数も大丈夫そうだ、まだ今の時期、黄色い花粉や中には白い花粉を付けてハチが戻ってくる。厳冬に花の蜜が無くなると今まで貯めたミツを食べてハチは冬を越す、その貯蜜量は秋口に人間様が頂戴したので越冬には足りないと思うので、その不足分は逆に砂糖水を与えて舐めてもらう。この砂糖水はただ鉢にたっぷり与えればいいというものではない、池のように器に入れて置いておくと、ハチは砂糖水の池に落ちた死んでしまう、止まり木が必要なのである、だから皆さんは割り箸を浮かべたり色々と工夫して給餌器を自作する、小生は自作するのが面倒なので、そして極めて安価であるから市販の給餌器を買った。でも今日の様子を見ている限りまだ大丈夫そうだ。もうしばらく様子を見ようか。

 今日も両親は薪作りに一生懸命だった
 
 昼は小生がチャンポンを作って両親に供した。

 久しぶり、という気がする、ゆず湯を立てた。太郎と二人で入っているところをおじいちゃんに撮ってもらった、夏子はもう一緒に入る年齢ではないが、それは別にしても、二三年前に、ゆず湯に入ると肌が痛いといって、ネットで調べたところ柚子アレルギーというものがあるらしくて、それ以来ゆず湯には入らなくなった。定点観測として子どもたちが誕生以来、毎年一緒に入浴シーンを撮っていたが、今年は成長著しい太郎と、病み上がりで痩せた小生の二人の写真になった、小生は計量したところ、66キロで入院前に比べたら4キロほど減っていた。






平成28年12月22日(木)


 日本海に発生した低気圧が移動して日本中天気が悪いという予報だったが、このあたりは、それほどでもなかった、日中は晴れている時間が長くて、午後に入って少し雨が強く降っていたようだ。この低気圧による強風で、糸魚川市で発生した火災が大火になっているようで、夜になっても燃え続けているらしい、火事に風は一番の大敵なんだ。
   最低気温 10.2℃ (18:42)、最高気温 19.0℃ (12:07)

 今日も少しの晴れ間を惜しむかのように両親は薪を作ってくれていた。22日に帰りたいという気持ち、どうやら二三日延ばしてくれたようだ。

 朝二番で、宇治歯科に行く。入院前に歯の神経を抜いてその後始末が終わっておらず、退院したら連絡をするようにとのことだったが、今日その治療に行ってきた、後一回で終わりそうである。
 
 歯科の後に、阿蘇自動車学校に行って高齢者講習の予約をしてきた。小生は来年の5月が更新月だが、昨日だったかその高齢者講習のハガキが来たので、今日直ぐに行ってきたのだが、なんとずっと予約で一杯で、早くて4月の6日だとのことだったので、それで申し込んできた。マニュアル車とオートマチックとどちらが良いですかと訊かれたのでどちらでも良いと答えたら、それではオートマチックにしておきます、とのことであった。
 
 高齢者講習の案内にはチャレンジ講習という方法もあるらしくて、これに合格すると免許証の更新手続きがもっと簡単らしいが、結構難関らしいのでやめた。昔のことだが、友人が免許が切れて、試験場で飛びつきで運転技能試験を受けたけど何度やっても不合格になって結局最初から教習所通いをして免許を取り直した事があった。日本の試験はとにかく型にはまった手順通りでないと合格しないようで、日常的にいくら上手く運転していても、運転の試験の基準に合わないと不合格になるようになっている。運転席に座る前に左右を確認してドアを開けるとか、運転席に座ってバックミラーの角度調整をするとか、右折する時には何十メートル手前でウインカーを出すとか、非常に細かなチェック項目があって、普段運転している人間は、そういう細かな手順通りにはやらないので、大体落ちるようにできている。日本は今や高齢者社会、ますます高齢者講習者は増えるだろう、教習所は儲かるなあ。
 
 教習所から帰る途中、古閑医院に寄ってインフルエンザの予防注射をしてきた。行政の補助があるので、1,200円だった。太郎も連れて行こうかと思ったが、太郎は一回打ったあと、麻しんの予防注射をしたので、あいだ四週間おかなければ二回目を打つことが出来ないということなので年内は無理である。


平成28年12月23日(金) 天皇誕生日

 終日曇り。今日は気温が上がらず寒々とした一日だった、明日に向けて気温が下がっている。
   最低気温 4.0℃ (但し18:15現在、なお降下中)、最高気温 7.9℃ (00:00)

 夏子は、青少年交流の家で吹奏楽部の一泊の合宿に出掛けていった。小生が入院中、ずっと働きずくめの両親、小生の見舞いで一度阿蘇を離れただけで、何処にも行っていないので、今日は何も予定がないから大晦日にNHK紅白歌合戦で氷川きよしが熊本城から歌うそうなので(多分「白雲の城」だろうと思うが、小生はこの歌が好きである)、ひとつ紅白の前に壊れた熊本城の実地見聞にでも行ってきたらどうですかと、カミさんの運転する車で、太郎も一緒に出掛けていった。

 じいちゃんばあちゃん熊本城見学 連続写真(1/2)
 じいちゃんばあちゃん熊本城見学 連続写真(2/2)
 
 カミさんが二重峠越えをするので、ミルクロードのライブカメラを見たところ、中継カメラの数が増えていた、確かカーブごとに全部で20基くらい作っていたので、今後まだ増えるかもしれない、そうなると何処に故障車があって、あるいは事故で、どこから渋滞が始まっているか分かるようになる。


平成28年12月24日(土)

 穏やかに晴れる。数字的にはそんなに高くは無かったが風もなく陽だまりでは暖かく気持ちのいい一日だった。
     最低気温 0.7℃ (08:01)、最高気温 9.6℃ (15:40)

 今日もじいちゃんは薪作りに励んで、その合間合間に太郎を相手にボール遊びをしてくれていた。カミさんとお母さんは一日中部屋掃除をしていた、小生はノンビリとサボらせてもらった。
 
 噴火警戒レベルが2に引き下げられたが、今日も中岳は結構活発に噴煙を上げていた、大丈夫かいな。
 
 熊本地震で大きな被害を受けた南阿蘇の俵山トンネルが8ヶ月ぶりに開通した、阿蘇へのルートの重要な一つだ、この開通は大きい。

 お姉ちゃんがマーチングの合宿から帰ってきた、今朝の新聞に、青少年交流の家の復旧記事と併せてその記事が載っていた。
 
 夜は、にわか耶蘇教になってクリスマスパーティをした。今年はおじいちゃんおばあちゃんもかたってくれて賑やかな晩餐会になった(「かたる」とは参加する、加わるの阿蘇弁である)。

 我が家のクリスマス・イヴ 連続写真
 
 村のクリスマスイルミネーションも、小生が入院中に隆一さんが飾り付けてくれたそうで例年になく綺麗に輝いている。我が家のイルミネーションもこれまた小生の入院中におじいちゃんが飾り付けてくれた。、


平成28年12月25日(日)

 穏やかに晴れる、本当に気持ちのいい一日だった。
    最低気温 1.5℃ (08:21)、最高気温 13.5℃ (13:08)

 もう太郎くらいの年令になるとサンタさんの存在を疑う子も多く、居ない、居ると保育園で意見が別れているようである。太郎はまだ居ると信じているので、そのための辻褄合わせが大変である。「お父さん、ストーブが燃えているとサンタさん入って来れんバイね」、「そうだねえ、じゃあ今晩は消しておこうかねえ」、「でもうちの煙突は細いバイ」、「・・・・うん、サンタさんはその時は小さくなって入ってくるとタイ」、「ふーん、お父さん、太郎もサンタさんにプレゼント作ったけん、サンタさんに分かるように置いておいて」、「そうか、良いよ」・・・・・燃えているストーブの煙突から入ってこられないということくらいはもう分かっているのでいい加減な誤魔化しが効かない、夢を壊さないようにするにはなかなか苦労する。
 
 太郎からサンタさん宛のプレゼント、なんだか色々と手作りのものが袋にイッパイ入っている。サンタさんがやってきてこれを持っていったことにすると、これは迂闊に家に置いておくわけにはいかない、でも一生懸命に作ったものを証拠隠滅するのは惜しい、困った、とりあえず何処かに隠しておいてサンタさんがちゃんと持って行ったことにしよう。
 
 今年はプレゼントを居間のカーテンレールのところにぶら下げておいた。太郎、いつもより早く目覚めて、キョロキョロ探して、カーテンから少し覗いているプレゼントを目ざとく見つけて「あった!・・・・」。
 

 毎年太郎はその時にテレビ放映中の変身ヒーローもののアイテムが欲しいと言っているが母親サンタはどうせ直ぐに飽きるからと、若干教育的要素を含んだ例えばレゴなんかを選んでいたようが、今年は太郎の希望通りの今テレビで放映中の変身モノ(仮面ライダーエグゼードと言ったかな、小生はサッパリわからないが)がぶら下がっていた。(写真1写真2)
 
 太郎、これが非常に嬉しかったと見えて一日中、ベルトを腰に巻いて、変身ポーズをとりながらピコピコと電子音を発するアイテムを触っていた。小生もその相手をさせられて格闘をした。(写真1写真2)

 カミさんが悪筆を直すために書道教室に通っているが、太郎も付き合わされて一緒に行っている、今日書いたという作品を持ち帰った。

 今日はおじいちゃん、あまり本格的な作業はせずに、それでも、自分で作った、自転車置き場の雨樋の修正をしたり、夏子の自転車の部品を買うために阿蘇になくて結局菊陽の方まで軽トラックで出掛けたりしていた。
 
 両親はようやく長期間拘束を解かれて明日の飛行機で千葉に帰ることが出来ることになった。


平成28年12月26日(月)

 曇り後、午後から弱い雨時々。
      最低気温 6.5℃ (00:53)、最高気温 13.8℃ (14:57)

 小生の入院中に無理を言って来てもらっていたカミさんの両親、今日ようやくお帰りいただいた。年末の忙しい時に長期間拘束して本当に申し訳なかった。朝9時5分のやまびこ号に乗って「あそ熊本空港」から千葉に帰っていった。ありがとうございました。
 
 カミさんはいつもの時間に出勤して、夏子は部活のために、バス停まで送ることが出来ないので、両親と一緒に夏子を途中中学校で降ろしてから保育園に行く太郎と二人でバス停まで行って、両親を見送った。
写真1写真2写真3写真4写真5

 夏子は自転車のつもりだったが、指揮杖を自転車に縛り付けることが出来ずに急遽自動車便乗に切り替えたのだ。(写真)
 
 退院以来、ボンの散歩はずっとおじいちゃんに頼りっぱなしで小生は行かなかったが、今朝はもうおじいちゃんが居ないので随分久しぶりに小生がボンの散歩に連れて行った。
 
 また晩の賄い方もおばあちゃんが居ないので今日から復帰した。豚のムニエルを作った。カミさんはずっと早く帰ってきてたから仕事が貯まっているのだろう。
 
 食卓がガランとしている、こどもたちがおじいちゃんおばあちゃんがおらんと寂しいねえと言っている。そうだよなあ、ずっと一緒だったからなあ・・・・・


平成28年12月27日(火)

 今日もはっきりしない天気で時々思い出したように冷たい雨が降っていた。気温はそれほど低くはなかったが風があったので体感温度は非常に低く感じて寒い一日だった。
  最低気温 3.0℃但し18:33現在、なお下降中)、最高気温 15.3℃ (00:23)
 昨夜日付が変わった時が一番気温が高くて、それ以降ずっと下がり続けている、明朝は少し冷え込みそうである。
 
 今日は村の会計処理をして過ごした。今月が年度末だ。
 
 昼頃、e鴨氏御入来。
 
 晩飯。ロールキャベツ



平成28年12月28日(水)

 今日は気温が上がらなかったなあ、もっとも外に出なかったのであまり寒さは感じなかったけど。
    最低気温 0.0℃ (06:16)、最高気温 4.7℃ (14:14)

 夕方空を見ると、中岳の噴煙がいやに活発だったなあ
 「熊本地震に伴う土砂崩落で不通になっていた県道菊池・阿蘇スカイラインの約6・3キロ区間(菊池市・念仏橋付近〜阿蘇市)が28日午前、片側交互通行できるようになった。安全確保のため、当面は午後7時〜午前7時は全面通行止めとなる。【熊日速報メール】」
 少しずつではあるが道路の機能も確実に回復している、それにしても許しがたきはf-JR九州だな。

 実は子どもたちは年末にディズニーランドに行く計画で飛行機や入場券なども予約してあった、しかし小生があんなことになって小生の退院にはとても間に合わないだろうとキャンセルしたそうだが、思いの外小生が早く回復したので、オイ行って来い、行って来いと勧めた結果、来年は受験もあるのでじゃあ今年中に行っておこうかと急遽出かけることになった。
 
 ディズニーランドがある浦安とおじいちゃんおばあちゃんの家は近いので、宿泊の心配はいらない、先日別れたばかりのおじいちゃんおばあちゃんとまた直ぐに会うことが出来ることになったのである。

 当初の予定では年末に行って年内に戻ってきて正月はここでということだったが、今回は急なことなので航空券は一般の帰省と逆コースなので羽田行きは直ぐに手配できたが、帰り便は一般の帰省客と同じ方向になるのでもう年内に戻ってくることができずに、元旦に戻ってくるということで、元日に千葉でお正月をやって、その日のうちに阿蘇に戻ってきてまたお正月をするのだということで、三人は今晩最終便で千葉に飛んでいった(予定稿)。カミさんは仕事が終わってちょっと家に寄ってからそのまま夏子と太郎を中学校と保育園に迎えに行ってそのまま空港に行ったので、「行ってらっしゃい」を言う間もなかった。おかげで小生はノンビリ大晦日を過ごすことが出来るというわけである、メデタシメデタシ。

 今はスーパーなど元日に休む程度で年中やっていて改めておせち料理の買い置きも必要がない程なので小生は適当に一人でのんびりすることにしているが、ただ、これは今日の明日というわけにはいかないので、「松前漬け」は今日作っておいた、小生、呑まないくせにこれがあれば・・・
 
 ミルクロードのライブカメラの方向が分からない旨のメールを出したところ、どうせナシの礫だろうと思っていたら驚いたことに丁寧な返信が届いた。
 そしてもっとビックリしたことは「上り」「下り」の説明であった、いやあそうだったんだ、知らなかったなあ、おそらく知らない人が多いだろう、どうせならそっくりこの説明文を熊本河川国道事務所のホームページに載せて周知させたらもっといいだろうに。と思ったのでまたそのことをメールしておいた、もっとも今日は仕事納めだな。
※※(小生宛)様

ミルクロードライブカメラのご利用ありがとうございます。
また、平素より国土交通行政にご理解、ご協力を頂きありがとうございます。

ミルクロードに設置しているカメラは、道路管理における道路監視を第一目的としております。
そのため、道路を管理するうえで監視が必要な事象がカメラ周辺で発生するとカメラを旋回させて、通常時とは異なる方向を向ける必要があります。
このカメラはどちらを向いているという表現ができないため、統一されたテロップ表示としております。

ミルクロードライブカメラの各画像の左上には、
「国道57号迂回路 ○○K○○ 上(下)」のようにテロップ表示しておりますが、
”○○K○○”は起点からの距離を表しており、
“上(下)”は、カメラを設置しているのが上り線(下り線)であることを表しています。

ミルクロードにおいては、阿蘇市赤水を起点、大津町引水を終点としているため大津町→阿蘇市が上り線、阿蘇市→大津町が下り線となります。

カメラが設置されているのがどちら側の車線かが分かれば、カメラ画像から阿蘇市側(起点側)に向いているのか、大津町側(終点側)に向いているのかが判断頂けるかと思います。

なお、他の路線については以下のとおりです。

国道3号線福岡側が起点、鹿児島側が終点となっているため、鹿児島→福岡が上り線、福岡→鹿児島が下り線

国道57号線は大分側が起点、熊本側が終点となっているため、熊本→大分が上り線、大分→熊本が下り線

国道208号線は熊本側が起点、福岡・佐賀側が終点となっているため、
福岡・佐賀→熊本が上り線、熊本→福岡・佐賀が下り線

県道28号(俵山ルート)は熊本市側が起点、高森町側が終点となっているため、
高森町→熊本市が上り線、熊本市→高森町が下り線

ライブカメラのページにつきましては、頂いたご意見を参考に分かりやすく工夫して参ります。
(赤い文字部分は小生が着色)
                      熊本河川国道事務所
                      TEL:096-382-
****

平成28年12月29日(木)

 今日も気温が上がらない一日で、低い雲が垂れ込めて、朝からずっと霧のような細かな雨が降っていた。夕方近くになってようやく青空が見えはじめた、明朝は氷点下6℃予報が出ているなあ。
    最低気温 -1.6℃ (05:16)、最高気温 3.0℃ (15:24)

 阿蘇市街の国道は帰省の車で結構混んでいるけど、ミルクロードは時々見ているけどまだ渋滞はしていないなあ、明日だろうか。

 スマホの位置情報アプリによると、千葉に飛んだ我が家の連中、昨夜羽田に10時過ぎに着いてそれから千葉の家に向かって深夜に到着したようだ。一夜明けて今日はディズニーランドにいることが分かる。じじばばも一緒かと思ったら我が家の三人だけだそうだ、まあ、あんなところジジババの行くところではないな、小生もこちらに来る前にカミさんに付き合って一度行ったことがあるけど一度で懲り懲りである。大のオトナでリピータがいるそうだから信じられん。我が家の三人、日が落ちてもずっと居続けのようなのでLINEで訊いたところパレードを見てから帰ると行ってきた、8時になってもなんとかが150分待ちでもう2時間待っていると言っている、こどもたち、十分に堪能したことだろうが、TDLも客を入れるだけ入れて悪どい商売だ。(写真1写真2)
 
 ミツバチに給餌を開始した。砂糖水を溶いたものだが、秋に人間様が頂戴した分を砂糖水で返してやるのである。本当は巣門の隙間に止まり木部分を差し入れて本体は外に置いておくのだけれど、巣門の高さが無いのでそっくり中に入れた、まあ、これでも良いのだけれど。(写真1写真2

 若干と謂えども身体髪膚の一部を毀傷したがためにどうも些か気力に缺けるところこれあり、この期に及んでまだ年賀状の作成が捗らない。毎年年賀状を交換している関係各位にはこのことを事前にお断りをしておかなければならない。
 
 その一方でつまらんものにハマってしまった。もう随分昔になると思うが、アメリカのテレビ映画で『24 -TWENTY FOUR-』というサスペンスドラマがあったが、小生は全く見る機会が無くて、登場人物がジャック・バウアーという名前だということくらしか知らなかった。たまたまインターネットの無料で見られるそれを見てしまった。日本の幼稚なドラマと違って面白くてついつい見入ってしまった、24時間の間に起きた事件を毎回一時間ごとに順を追ってストーリーが展開するのだから、おそらく完結するのに24回、計24時間かかるということだろうか、変なものに捕まってしまった、全部見終わるのに24時間かかるということだろう、しかも今見始めたのは「シーズン1」とあるからその続編、続々編と続くのだろうか、なんだか依存症になりそうだ、こんなもの無料で見せちゃ駄目だなあ、いかん、いかん。


平成28年12月30日(金)

 見事に晴れ渡った、放射冷却で冷え込んだ、ここ山付きは予報ほどでも無かった。
    最低気温 -3.7℃ (07:26)、最高気温 8.2℃ (15:17)
    阿蘇乙姫アメダスポイント -5.2℃ (06:30)
    
 今朝は6時半まで熟睡した、近年まれなことである。たしかに昨夜は11時過ぎまで起きていて子どもたちがディズニーランドからおじいちゃんおばあちゃんの家に無事帰り着くのをスマホの位置情報を見ていていつもよりは遅くまで起きていたのは確かだが、それでもこの歳になると夜中に一度や二度は必ず小便に目が覚める、昨夜はそれが全く無かった、今朝尿意を催して目が覚めた時(あるいは自然に目が覚めたと同時に尿意を催したのかも)に、何時だろう、まだ二時くらいだろうかと思って枕元の時計を見たところ時計の針がもう6時半を指していた。昨日は別に疲れるようなこともしていなかったので、多分一人で眠りを妨げる音もなく、しかも心地よい室温だったからだろうか、こんなに気持ちのいい寝覚めは本当に久しぶりのことだった。

 なんとなんと連中は今日もディズニーランドに行くのだとLINEで言ってきた、なんじゃ、どういうことだと訊くとツーデーなんとかだそうで二日通しの入場券だとのこと。昨日は結局閉園まで居て、じじばばの家に帰り着いたのは11時を過ぎていたのに、いつもは寝坊助の夏子まで今朝は早々と起きてまた出かけると張り切っていた。今日はじじばばも一緒だそうだ、わざわざ飛行機で行ったのだからたっぷりモトも取ってくるといいがそれにしても連中はタフだなあ。
 
 夕方になって、ディズニーランドでやっているビッグバンドを聴いてから、それからもう一つ何かに乗って帰るそうで結局今日も閉園までいるのだろう。じじばばは早々と帰ってきたそうである。

 昼前になんとか年賀状を作って投函した、元旦配達はもう無理だろう。昔は年賀状を「書く」と言ったがいつの頃からか「作る」になってしまった、それでも一年に一度の生存確認、もらうと安心するし嬉しいものである。

 昼飯に蕎麦を食いに行った、休みだった、昨日も休みだった、この年末の稼ぎ時に・・・明日の大晦日に備えて英気を養っているのか。(午後になって女将さんがお店の名物、肉まんと豚角煮まんじゅうを届けてくださったのでお訊きしたらやはり大量の年越しそばの注文に暖簾を引っ込めて、蕎麦を打っているとのことであった、さもあらん。)

 やむなく近くの国道沿いにあるうどん屋に行った。このうどん屋は「文吾」という店で、小生がここに来た時にはもうあった、もっと昔からあったのだろう、だが、不思議と印象の薄い店で、今まで一度も入ったことがなかった。普段でも外で何かを食べようかと思った時も思い出したことがなかった、そんな店だが今日始めて入ってみた、結構大きな店で賑わっていた。値段も手頃、味も良かった、一度入ると印象に残る、今後度々利用することになるだろう。
 
 ついでに晩飯の話。急に「とろろ汁」が食べたくなって出汁を作って山芋をすり鉢ですって「とろろ汁」を作って一人で食べた、美味いものを食うことに関しては手間を惜しまない。

 村の元旦の賀詞交歓会用のミカンなどを手配しておいた、あとは年内にやっておく村の仕事は無いな。

 さあ、明日は少しばかり掃除でもするか。
平成28年12月31日(土)

 気持ちのいい冬らしい凛とした日が続く。
    最低気温 -4.4℃ (07:34)、最高気温 9.1℃ (14:03)

 いよいよ今年も終わりだ。今年は熊本地震、阿蘇中岳の数十年ぶりの爆発的噴火、そして私的は年末に腹を少し切った、など色々な事があった、幸いに我が家は天変地変の被害は無かった。
 
 中岳は相変わらず活発に噴煙を上げている、火山はあまり静かすぎてもつまらない、警戒レベルが低い状態で活発に噴煙が上がっているのが観光的にも良いのだがそう都合の良いのってあるのだろうか。

 我が家の連中がいないので、改めて大掃除をするなどの正月を迎える準備なども何もしなかった。何をしなくても新しい年は来る、ただ仏壇と神棚の掃除はした、神棚には新しい御札を入れた。
 
 それから蕎麦を打った。「阿蘇の風」のオヤジが一人だから蕎麦も打たないだろう、届けようかと心配して電話をくれたが、一年の締めくくりだ、一人だけど蕎麦は自分で打って収めたいと好意だけ頂戴した。
 
 一人分の蕎麦だといってもそんな少量は打てないので、300だけ打った、それでもママゴトのようなそば打ちになった
 
 そして大晦日の夕食、我が家は例年すき焼きを食べるので、たとえ一人でもすき焼きを食うぞと、一人すき焼きをした。千葉に行った連中は今晩は何を食ったろうか。いつもなら子どもたちが紅白を見ながら騒々しく時間が過ぎていくが、今年は幸いにその騒音を聞かないで済むので静かな夜を過ごした。そしてジャック・バウアーを少し見た、心臓に良くないな、いやはや24時間分と言う時間は大変な時間である。
 
 最近「クリぼっち」という言葉があるそうで、これは一人でクリスマスを楽しむということのようで、一人でするクリスマスイブを肯定的に捉えて最近は一人用のケーキやクリスマス料理などが店で売っているそうである。カラオケでも最近は「ひとカラ」という言葉もあるそうで、文字通り一人でカラオケボックスなどに行って一人でカラオケをするということらしい、もともと多人数でカラオケに行っても、基本的に陶酔しているのは歌っている本人だけで、他の人は自分は今度何を歌おうかと選曲などに夢中になってロクに人の歌など聞いていないのだから、そういう意味では一人のほうが良いのかもしれない。
 
 小生も今年の大晦日、そして元旦は「ぼっち」であるが、いわゆる世に言う「独居老人」ではなくて幸いに一人で過ごすチャンスが出来たと喜んでいる「ぼっち」なのである。

 だから元日もちゃんと雑煮を食べるべく仕込みをしたし、屠蘇の用意もした。世間では「お屠蘇」の酒は何を使うのだろうか、普通の清酒に屠蘇散を入れて「お屠蘇」にする家庭もあれば、ミリンに屠蘇散を入れて「お屠蘇」にする家もあるだろう。中には屠蘇散を入れないで清酒だけを飲む家もあるようだ。熊本では昔から「お屠蘇」には赤酒を使う、赤酒とは熊本に昔からある酒で味醂のように甘い酒である、味醂ほどしつこくない、これに一晩屠蘇散を漬け込んで「お屠蘇」として元日に飲むのである。屠蘇散は漢方の生薬なので赤酒に漬けた「お屠蘇」を飲むと、養命酒と同じような味がする。
 
 夜8時過ぎ、突然防災無線から火災発生のサイレン。阿蘇高校前の写真屋ASOカラーの前の民家から出火とのこと、空が赤く燃えていた。選りに選って何もこんな時に、という気がしないでもないが何が原因だろう、なにより出火元が一番大変だろうが、大晦日を一家団欒していた消防団員も大変だ、阿蘇神社の初詣の交通規制道路にもあたるのだろう、いやはや一年の締めくくりとしては大変な大晦日だ。後からわかったことだがそれだけで済まないことが分かった、この火災で現場の前を通っている阿蘇市の光ケーブルが燃えて、阿蘇市の一部ではインターネットが不通になっていて回復には明日の午後までかかるそうである。そう言えばもうだいぶん前になるが、宮地駅前の民家が燃えたときにもかなり広範囲に光ケーブルが駄目になったことがあった、バックアップ回線も無く、最低のシステムで引いている行政の光ケーブル、これだから信頼性に欠けるのだ。そもそも今のお知らせ端末も何年前のものだ、ドッグイヤーのように情報機器はあっという間に陳腐化するというのに、何も手を打っていないのだろう。(今夜の火災、22時に鎮火した旨の防災無線放送があった)

 ここでは除夜の鐘は聞こえない、除夜の鐘を撞くお寺もあるのだろうが、我が家の近くにはない、年が改まる前に天ぷらそばを作って食った。来年は穏やかで静かな年であって欲しい。

 かくして平成28年丙申大団円・・・・・・か?



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